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山田勇男

ヤマヴィカ映画史12


(写真:『アンモナイトのささやきを聞いた』(1992)スチル)

1989年12月31日で、今はもう無い「タケヤ工芸」という看板屋を辞め、

1990年1月1日から映画台本を書き始めた。

古本屋に勤めていた岡倉秀明の夢がもとになっている。

彼には妹なんかいないのに、森のなかの巨大なアンモナイトの薄明かりのなかで眠っている。

彼は、夢を見るたびにその眠っている妹を訪ねていくという話だった。

『アウローラの焔』というタイトルで書き進めたのだが、

悩んだり迷ったりすると頑固になるか、他者の影響を受けすぎるかで、

まわりといろいろ話しをしていくうちに、どんどん内容が変わっていった。

「それじゃ解らない、解らないことをちゃんと解らないと伝えることが大事だ」

と、ユーロスペースの堀越さんは云った。

堀越さんは、余計なことは何ひとついわず、「山田さん、大人の遊びをしましょう」と、

たった五ツ離れただけなのに、四十五歳の彼の凄みをまじまじと思い知らされた。

互いに初めての制作現場ではあるが、つくづく「私」のちからの無さを思い知らされた。

何度もその最悪の、これはもう誰も救えないという状況に直面しながら、

何とか乗り切れたのは、奇蹟としかいいようがない。

思い出すだけでもゾッとする。

堀越さんがポストプロダクションで素晴らしい方々を揃えてくれたことは、

改めて彼のイニシアティブのちからとしか言いようがない。

今、思い返しても頭が下がる。

恥ずかしい話だが、「助けられた」と痛感している。

札幌でのスタッフは映画のアマチュア集団だったけれども、

ほとんどの人が何度かの中断にも耐え、さいごのさいごのさいごまで、

よくぞと、ほんとうに監督の「私」を消したくなるくらい、

それぞれのちからが結集した感のある現場だった。

もう20年以上も経過しているのに、その仲間たちは今もつながっていると聞く。

「私」は遠く離れた位置にあるが、これは映画というひとつの事件だったんだ、

と、懐かしく、切ない思いに駆られる。

★(続)


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