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山田勇男

ヤマヴィカ映画史8


(写真:『巻貝の扇』スチル)

「イメージフォーラム実験映画祭」の誘いで、

初めての16ミリ映画『巻貝の扇』(1983)を撮ることになった。

その年の5月4日に寺山修司が亡くなった。

生前、寺山さんが札幌に来たとき、

「山田、8ミリで撮るのもいいけれど、16ミリで撮ると良い。

16ミリだといろんな映画祭に出せて、いろんなひとに観てもらえるよ」

と言っていたことを思い出し、

前作『銀河鉄道の夜』で照明を担当してくれた麻生知宏に相談した。

麻生さんは、「イメージフォーラム」の定期上映会で発表したり、

札幌で中島洋と「アンダーグラウンドファクトリー」を結成して、

地下にある「喫茶コンボ」を拠点に実験映画や個人映画を自主上映していた経験もある。

撮影と機材提供の快諾を得て、初冬ともいえる11月の下旬に数日の撮影をした。

皆勤めていたり学生だったため、撮影は日曜日に限られた。

平日の夜にそれぞれが集まり、準備や打ち合わせをした。

「私」は小さな看板屋に勤めていたので、残業も多かったから、

随分とあわただしい日々だった。

美術には好きな作家の瑞聡を中心に、友人の小林俊哉たちが手伝うという広がりがあった。

小林くんも美術のひとだけれど、「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」が好きで勤めていたという(「私」は寺山さんの『さらば箱舟』で衣裳を担当したことで多少その辺りを巡り、

川久保玲に興味を持っていたこともあった)ので、衣裳のほうにも瑞智子と関わってもらった。

音楽には、東京藝術大学の作曲科で勉強して札幌に戻り、

音楽教室をしていた出路茂子に作曲とピアノを弾いてもらった。

野畑貴夫と三上敏視が作曲・編曲・音響で、出路さんの出来上がった曲を使い構成した。

湊谷夢吉が縄文時代の言葉(あったかどうか?!湊谷オリジナル)を作り、合唱することを提案。

こうして知り合いの輪で広がったスタッフのちからが重層するかたちで作品内容も豊かさを増した。

もちろん彼等は、撮影にも参加し、あれこれと役目が交差して出来上がっていく。

これが銀河画報社映画倶楽部の方法だった。

「私」のアパートの脇の道路を使って、美術の端くんが、

実物大の縄の馬を作るので、手伝える人たちが集まった。

彼の友人たち、北大生の山崎幹夫を中心とする他校の仲間も含めた

「映像通り魔」という映画の同志のグループの助けを得て作った。

その後、脚本家となる小川智子、監督となった佐々木浩久もいた。

何しろ、その名の通り仲々ラディカルな連中で、

組み木を円山公園で切ってくると言って、

ノコギリやオノを用意して出掛けたのには、びっくりした(今思い出せば、楽しい笑い話だ)。

撮影前日、残業から帰った「私」はその巨大な縄の馬の出来つつある姿を見て、

子供のようにはしゃいだ気持ちになった。

もちろん、大勢で仕上げに夜中までかかったのを覚えている。

さて、このように思い出を綴ると、次から次へと、

とても懐かしさがこみあげてくる。

そして、撮影が始まって間もない頃、

麻生さんの義母の病状が悪化し、急遽、

山崎くん(「映像通り魔」で監督以外に撮影もしている)に交代してもらった。

ところが、初めての16ミリカメラである。

彼は、その場で常に冷静に手引書を見ながらの撮影の日々。

いちど、床にネジが一本落ちて大騒ぎをしたことがあった。

その結果、画像の中心部だけが流れているような状態で現像されてきた。

本来なら失敗として使わないだろう。

「私」は、それを失敗とみなさないで、映像の女神の美しい仕業ととらえる。

仲々 そのように意図して仕上がるものじゃない、歓迎する失敗!

とてもいい感じなので、喜んで使った。

「私」の映画は、所謂アマチュアイズムの結晶でいいと思っている。

自分たちが、予定調和じゃなく、思いがけず歓喜したり、

わくわくさせてくれることに出逢うことが嬉しいのだ。

そのために沢山の失敗を繰り返すことは、当たり前ではないか。

汝、失敗家の夢想を笑えず!

★(続:次回の投稿は9月中旬予定です)


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