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山田勇男

ヤマヴィカ映画史4


(写真:『スバルの夜』スチル)

1977年。

湊谷夢吉との発案から、銀河画報社第一回作品を進める。

まず、大阪から来ていた藤木光次の自家現像の写真が好きで、撮影をお願いすることにした。

「天井桟敷」を退団して札幌に戻っていた稲葉憲仁は、寺山の映画作品に関わった経験から、

具体的な進行を含め、脚本を手掛けた。

後に撮影を担当することになる北大生、阿倍崇文を紹介してくれる。

編集を終え、音楽は藤木光次が通っていたジャズ喫茶「アイラー」の田川真理子が選曲した。

如何せん初めてのこと。

カメラを湊谷さん、映写機は「私」が、近所の円山質店で一緒に買った。

フィルムを「私」が、現像代を湊谷さんが支払う。

演出は皆で話合いをしながら、時に激論になった。

基本的に「私」の思いつきを、湊谷さんが整えるといった共同演出で、

すべからく二人の合意で進めていた。

処女作『スバルの夜』から、8ミリ映画5本、16ミリ映画3本が、

多くの出会いのなかで生まれた。

1988年6月7日。

湊谷夢吉の死によって、銀河画報社の活動は14年間で解散した。

★(続)


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