(写真:『スバルの夜』スチル)
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1977年。
湊谷夢吉との発案から、銀河画報社第一回作品を進める。
まず、大阪から来ていた藤木光次の自家現像の写真が好きで、撮影をお願いすることにした。
「天井桟敷」を退団して札幌に戻っていた稲葉憲仁は、寺山の映画作品に関わった経験から、
具体的な進行を含め、脚本を手掛けた。
後に撮影を担当することになる北大生、阿倍崇文を紹介してくれる。
編集を終え、音楽は藤木光次が通っていたジャズ喫茶「アイラー」の田川真理子が選曲した。
如何せん初めてのこと。
カメラを湊谷さん、映写機は「私」が、近所の円山質店で一緒に買った。
フィルムを「私」が、現像代を湊谷さんが支払う。
演出は皆で話合いをしながら、時に激論になった。
基本的に「私」の思いつきを、湊谷さんが整えるといった共同演出で、
すべからく二人の合意で進めていた。
処女作『スバルの夜』から、8ミリ映画5本、16ミリ映画3本が、
多くの出会いのなかで生まれた。
1988年6月7日。
湊谷夢吉の死によって、銀河画報社の活動は14年間で解散した。
★(続)