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山田勇男

ヤマヴィカ映画史3


(写真:映画『田園に死す』で自作の指差看板を持つ筆者)

1974年3月。

寺山修司主宰の「天井桟敷」に入団した。

夏の公演『盲人書簡上海篇』を終えた時点で、すっかり懐の底がつき、

わずか半年で札幌に戻るも、寺山修司長篇第二作『田園に死す』に呼ばれ、意匠工作で参加した。

例えば、たくさんのかざぐるま、大きな黒子占いのテント絵、

田園に立つ福助足袋の看板、周りに般若心経を書いた犬の棺桶、

セーラー服の案山子、皆で作った川に流れる雛壇。

原田芳雄と八草薫が心中する御堂の内部に、

醤油や珈琲でモノクロ写真を古ぼけさせて貼ったりもした。

余談になるが、自分の仕事が一段落して、現場を覗いたら、

「山田、ちょっと」、と寺山さんに呼ばれ、

エキストラとして冒頭の墓から現れたり

サーカス小屋で水をかけられたり、梯子にのぼされたり、

線路に自作の畳大の矢印の手を持って立たされたり、

オルガンを弾いたり、床屋の客になったりさせられた。

初めて映画の現場をまのあたりにすると、

見るだけでなく作る側への思いを馳せた。

なんと単純な、これが若さというものか。

★(続)


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