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山田勇男

ヤマヴィカ映画史1


ランボオを辿ることは、今までの「私」自身を辿ることではないか、

そんな思いが駆け巡る。

(写真:『イリュミナション』映画制作メモ)

2010年8月13日。今は無き、東京下北沢南口の古本屋『幻游社』の店頭ワゴンでみつけた、

埴谷雄高『濠渠と風車(ほりわりとふうしゃ)』のなかに『ランボオ素描』があった。

1970年。高校生だった私は、田舎町の小さな本屋でみつけた!

『地獄の季節』アルチュール・ランボオ

今になって、ランボオの十七歳の錯乱する感受性に、六十五歳のこの「私」を重ねてみる。

その瞬間を感じとる触覚にも似た、野性的、あるいは霊感的ともとれる

感覚をふたたび発見する思い。安っぽい歳月の理性などどうでもいい。

今こそ「極端化と曖昧と神秘化」の方法が必要なのだと独り合点、納得する始末だが、

はたしてその先は、ただ虚無のなかを漂っているしかない。

そのときどきの原初の感性、本質的な「私」を感じとる<認識>を、改めて思わせてくれる。

今、つくづく、大切なことだと思っている。

いつもながら、解り得ないことを見詰めているだけか。

(続)


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